サラリーマンから法人化までの道のり ~人生初の事業収入~

先日、新しく開業された方とお話したのをきっかけに、あらためてぼくが開業した経緯についてまとめているのですが、想像以上にだらだらと長文になって困っている真っ最中ですw

途中でほおり投げるのもアレなので、とりあえずどこかキリの良い着地点を模索中。

前回までのあらすじ

1990年代のこと、高校を中退したぼくは実家の家業をそこはかとなく手伝いながらパソコン通信にどっぷりハマっていた。そこで知り合った凄腕のプログラマーたちと意気投合し、起業するか!などと無謀な計画を立てるものの、はじまりもせずに計画は頓挫。

マジメに実務経験を積むか…とアルバイト情報誌を手に取り、パソコン通信で公開していたプログラム類を作品として面接に持参して無事採用。それからトントン拍子で正社員になるものの、あまりにも多忙で技術を学べる時間がないと考え、退職を決意。

このときまだぼくは18歳になったばかりであった。

PC/AT互換機(DOS/V機)との出会い

ソフトハウスで働いていた期間はアルバイトとして1ヶ月、正社員として半年だったと思います。

実家暮らしだったため、家に5万円ほどお金を入れていたとはいえ、毎月10万円くらいはお小遣いにする余裕がありました。そこでぼくはそのお金をコツコツと貯め、36万円もするPC-486のPC/AT互換機(DOS/V機)を購入していました。

正直なところ、当時36万円のパソコンを高いとは全く思っていませんでした。中卒小僧のぼくごときが4ヶ月も貯金すれば買えるのだし、有名メーカー製ともなると同じスペックで50万超えは当たり前の世界だったからです。

むしろ、今現在、アラフォーとなったぼくのほうが36万円のパソコン?!どんな高級機種だよ!と思ってしまうかもw そのくらい当時はパソコンが高いのは当たり前だったんですよね。

ともかく、その自慢のPC-486(CPUクロックはわずか100MHz)を購入したは良いものの、仕事が忙しすぎて毎日終電で帰る日々だったため、ろくに触る時間が取れませんでした。

場合によっては終電を逃して5駅くらい歩いたりしていたので、体重が1ヶ月で7kg減とかそんな感じでした。たぶんこの30年間で一番体重が軽かったんじゃないかなぁ。

…どうでもいいですね。

仕事をやめて無職になってからはどっぷりがっつりPC-486を触りまくりました。当時、日本ではまだPC-98シリーズのほうが主流でしたが、スペックの割に安価で、わずかに高解像度(PC-98が640x400pxだったのに対してDOS/V機は640x480pxだった)という点に惹かれたのと、日本独自規格のPC-98シリーズよりも世界標準のほうが将来性があるのではないか、という考えがありました。

とはいえ、既に実家の洋服店では請求書の印刷などにPC-98シリーズ(といいつつ互換機のEPSON PC-CLUBというキーボード一体型のPC)を使っていましたので、98機とDOS/V機を並べて両方の違いをどんどんと吸収していきました。

特に技術力の向上が顕著だったのはBIOSについて学んでからですね。

それまではMS-DOSというOSが出来ることだけをプログラムから指示して動かしていましたが、BIOSを学ぶことによってOSでも出来なかったその機種特有の機能を呼び出せるようになり、更にはOSに頼らないフロッピーディスクまで作れるようになっていたので、気分はOS作成者です。
(専門用語で言うとブートローダーを作れるようになったに過ぎない)

そこでまたぼくは調子にのってしまい、ここまで技術力が付いたのだから、起業できるのでは?!と思ってしまうわけです。

Windows Ver3.1との出会い

当時、Windowsの3.1が出たばかりでしたが、まわりのパソコン通信仲間は皆手に入れていたので、ぼくもPC-98版、DOS/V版の両方を購入しました。

しかし、これが本当にウンコなOSで、見た目はグラフィカルで綺麗なものの、今までコマンド一発で出来ていたことがわざわざマウスで何度もクリックしないと出来ないし、意味不明なエラーで落ちるし、Windows用のソフトなんてロクに数がそろっていないので、従来のDOS用のソフトをマウスで起動するだけのランチャーソフトに成り下がっていました。

こんなものなら自分でも作れるわ!とMS-DOS上で動くテキストベースのWindowsモドキを作って悦に浸っていたほど。

今考えるとそれは本当に幼稚なプログラムでしたし、Windowsどころか、中のエクスプローラー(当時はファイルマネージャーという名称だったかな?)を2画面表示にした程度の機能しかありませんでしたが、それをWindowsの名前をモジってWinDOSとかネーミングして知り合いに配って使ってもらったりしていました。

その知り合いたちがそのソフトを大変気に入ってくれて、このデュアルウィンドウ、Windowsより全然使いやすいよ!これ売れるよ!なんて褒めてくれるものだから天狗の鼻は伸びるばかりw

そして凝りもせずにまたメンバーを集めて起業を志すのですが、こちらもやはり販路の開拓をどうすれば良いのかわからず、(細かい経緯は似たようなモノなので省きますが)はじまる前に終了。

…ホント、我ながら学ばない。

ただ、前回とひとつ違ったのは、派生物がちゃんとお金になったことです。

はじめての依頼と個人事業収入

WinDOSを作る過程で学んだことは多岐に渡るため、たくさんのソフトが出来ていました。

その中に郵便番号の検索ソフトがありました。たしか、膨大なデータを高速で検索するプログラムを作る必要があり、その片手間に郵便番号検索を作ってみようか、などと考えたのがはじまりだったと思います。

ところが実際は検索プログラムを作るよりも、郵便番号データの入手のほうに苦労しましたw

当時はインターネットがありませんからね。郵便局に専用の書式で依頼を出して、CSV形式の郵便番号データが記録されたフロッピーディスクを郵送してもらうのですよ。

そんな制度があることすらも一般にはあまり知られていませんでしたから、その調査や手続きのほうがプログラムを作るよりもずっと大変でしたw
(日本語変換ソフトが郵便番号検索機能を備えていたので開発元に電話してデータの入手先を尋ねるなんて無茶もしました。教えてくれなかったけどw)

そして、これに興味を示したのが家業の洋服店に出入りしていた税理士さん。

たまたまぼくがお店にあるPCで郵便番号から住所を表示するプログラムを動かしていたところ、「これの反対のことってできるのかな?」と声をかけられました。

つまり、郵便番号を住所へ変換するのではなく、住所を郵便番号へ変換するのです。

その税理士さんいわく、膨大な顧客データがあるのだけれど、郵便番号が入っていないデータが大量にあるとのこと。

郵便番号があれば並び替えも容易になるし、郵便物が届くのも早くなるので手動でひとつひとつ入力してはいるけれど、とても終わりが見えない、と言います。

更に、その住所は「千代田区一丁目一番地」という書き方だったり「千代田区1丁目1番地」だったり「千代田区1-1」だったりと書式も統一されていない、と。

まぁ少々面倒ではありますが、出来なくはないと思いました。一発で全部のパターンを洗い出すのは難しいけれど、パターンを作るたびに変換をして、変換できなかったところを目視で確認すれば、また違うパターンを登録して…と、何度か再開発を繰り返せば完成すると思いました。

結果、開発時間自体は大したことなかったのですが、開発する環境が自宅にしかなく、顧客データも税理士事務所から持ち出せないとあって、5回くらい税理士事務所へ通うハメになったのが面倒くさかったですが、ともかく無事完成。

その報酬として5万円もらったのが、はじめての個人事業収入でした。

そしてこの事業所得を白色申告したのも人生初。

右も左もわからなかったため、税務署の署員と相談しながら記入を進めましたが、事業所得、という欄に金額を書くのがなんとなく誇らしい気持ちになったのをよく覚えています。

そして情報処理技術者試験へ

ソフトハウスを退職し、家業を手伝いながらプログラミングを学び、その派生物で人生初の個人事業収入を得たものの、このままでは食っていけない、とのアセりがありました。

ぶっちゃけ18歳になるまでは高校生の範疇じゃないか、くらいの甘えがあり、実家暮らしをしていても何とも思わなかったのですが、もう半年もすると19歳、という段階になると途端に不安になってきました。

このまま起業の夢ばかり見てもいられないのではないか、と。

そこで、プログラミングの勉強と作品作りは継続しつつ、次の就職活動をする前に、情報処理技術者試験という国家試験を受けてみようと思いました。

スケジュールを調べてみると、まだギリギリ18歳のうちに試験結果を受け取れそうです。

そうして人生初となる国家試験に向けて勉強の日々がはじまりました。

つづく。

続き

サラリーマンから法人化までの道のり ~情報処理技術者試験への挑戦~

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